裏山の木が | あんとんさんちにも書いたのだが、裏山の岩がずっと気になっていた。
今日調べてみると、この辺りは稲荷山と言う山があり、「多米城跡」であったらしい。
多米校区自治会のサイトなど結構いろんなサイトでこのことが書かれていた。
以下引用。
多米城跡 多米村史に元益城とある戦国期・今川方、多米又三郎元益の居館。
北に稲荷山、南に滝川(朝倉川)、それに合流する殿川が流れる宇清水、俗に城屋敷という地とされ、現在の「うどん松月庵」あたり。
多米の歴史
多米城(元益城) 多米城は稲荷山南東の平地に多米元益が築いた城といわれる。
今は畑や宅地となり遺跡は何も残っていないが、明治の頃には城屋敷とよばれ約50m四方の畑の周りを山が取りまいていた。
多米氏は吉良町鷲尾氏の子孫がために移住して多米氏を名乗ったと伝えられている。
元益は、若い頃に武者修行中、北条早雲と出会い、その片腕として活躍したといわれる。
その子の元興も、後に青木城主(横浜市)となり、北条氏進化として名をあげた。
永正12年(1515)、多米周防守元興は父元益の出生地である多米村に祖先追福のために本顕寺を建てたが、後に三沢に隠棲して、天文6年(1537)、この地に寺を移して豊顕寺(ぶげんじ)と改めた。豊顕寺には多米一族の墓がある。
元興の子、長定も上野西牧城主として務めていたが、秀吉の小田原攻めが始まると伊豆山中で豊臣勢と闘い討ち死にした。
ここで多米氏の主流は絶えたが、長定の弟家元の遺児の時安がのちに徳川家康に仕え、家康の第5子松平信吉付となった。
本顕寺の所在地はよくわからないが、多米の旧字名に寺門があるから、そこであろう。
また豊橋市史には、「横浜市三沢の豊顕寺にある甲冑と鎧は三州多米周防守の寄進したものというが、これは船形山合戦で城を守った多米又三郎のことと思われる」とあり、多米氏についてはいろいろな諸説がある。
で、夕方登ってみた。
ずんずん登っていくと・・・
先着の少年達がいた。
たまに、女の子達も登っているのを見かける。
どうやら、面白い遊び場になっているようだ。
元々は竹林だったので当たり前なのだが、タケノミがたくさん生えていた。
登ってみると、思ったより高く感じた。
この辺り一帯を見渡せる、とても感じのいいところである。
気になっていた岩は、とても大きな物であった。
今後、どうなるんでしょうね?
それにしても、僕が生まれ育った町は豊川稲荷のすぐ近く。
で、今住んでいる所は、稲荷山だったなんて、なんだかご縁を感じます。
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