昨日に引きお気に入りのCD、もちろんジョン様の「The Magic Box」です
アフリカ音楽を演奏しています
「ンコシ・シケレッリ・アフリカ(神よ、アフリカに祝福を)」って言う曲は2019年に日本で開催されたラグビーワールドカップで南アフリカが優勝した時に歌われていて「あっ、聞いたことある!!」と思ったのを覚えています



一緒にアルバムを作ったフランシス・ベベイさん(Francis Bebey、1929年7月15日 – 2001年5月28日)はカメルーン生で有名な人らしいです
このアルバム中の曲「The Magic Box」は「ゼンマイ式蓄音機」の事らしいです
きれいな曲なので耳コピしちゃいました
フランシス・べべイさんの演奏が YouTube にありました!!
ジョン・ウィリアムズ – トピック内に、このアルバムのプレイリストもありました
ホントいろいろな音源が聴けて幸せな時代ですね
ライナーノーツ英語版







ライナーノーツ日本語版


ザ・マジック・ボックス
The Magic Box
ジョン・ウィリアムス
JOHN WILLIAMS AND FRIENDS
- オ・ビア
O Bia (3:5() - タウンシップ・クウェラ
Township Kwela (3:08) - マキ
Maki (4:27) - エンゴメ
Engome (4:28) - マリンケ・ギターズ
Malinke Guitars (6:05) - マサンガ
Masanga (3:16) - ムッシャ・ムシキ
Musha Musiki (4:43) - ミトパ
Mitopa (3:58) - トライアンギュラー・シチュエーションズ
Triangular Situations (3:58) - ギター・マコッサ
Guitar Makossa (2:37) - ザ・マジック・ボックス
The Magic Box (3:10) - オンビィ
Omby (3:23) - ンコシ・シケレッリ・アフリカ
Nkosi Sikelel’i Afrika (3:58) - ジャンジョン
Djandjon (2:42) - サンガラ
Sangara (3:39)
ョン様のアフリカ音楽に関する解説
20世紀において、アフリカが世界各国の例に違わず、国際的な文化交流と発展を経験し、そして同時にそれに対して貢献する中、現代ギターのあらゆる形態が、アフリカ大陸全域においてロック、ジャズ、ブルース、クラシック、そして民族音楽における、ソロ、そしアンサンブル楽限として広まっていった。
初期のギターは15世紀に、主にポルトガル人によってアフリカ大陸とその周辺の島々に伝えられた。
だがその後何百年にもわたり、ギターという楽器は伝統約なアフリカ音楽に対して楽器としても、また音楽的な意味でもほとんど影響を及ぼすことがなかった。
もちろんこの理由として社会的な要因をいくつもあげることができるが、それには明解な音楽的理由もあった。
既に豊かなことこの上ないアフリカ全土の音楽の世界において、指で弾いたり弓で弾いたりする弦楽器は幾種類も存在しており、そこには他の楽器が入り込む“余地”がなかったのだ。
アフリカの民族や村落における、純粋な音楽文化にとって、ギターを含むヨーロッパの楽器は異質な存在だったのだ。
対照的に、ラテン・アメリカの文化圏は、スペイン人によってギターが持ち込まれるとそれをしっかりと受け止めた。
それもそれまでその文化には木管楽器や打楽器しか存在していなかったからなのだ。
アプリカ音楽を一般論で括ることは不可能であり、これはアフリカのギター音楽についても同様である。
音楽を語る際には必ずその音楽の出自が大事になってくるのだ。
ザイール出身のジャン“ボスコ”ムウェンダはスチールのアコースティック・ギターで一種のブルース=クラシック・スタイルを演奏し、そしてそれを発展させてアフリカ音楽のみならず世界の音楽に影響を及ぼした。
また厳密にはアプリカ大陸の一部ではないのだが、ボルトガルの植民地であったカボ・ヴェルデ諸島のギター・スタイルはポルトガルとブラジルの音楽スタイルを反映している。
さらに、これまたアフリカ大陸の一部ではないものの、音楽的、そして文化的に恐ろしく複雑な歴史を持つマダガスカルでは、音楽において、そして楽器の演奏法においても実に多彩なギター・スタイルを発展させている。
カメルーンのフランシス・ベベイはクラシック・ギターを学び、その後、民族音楽学の世界では著名な学者、作曲家、歌手、そしてサンザ (ムピラとも呼ばれる親指ピアノのこと)奏者になっていった。
彼の友情は私を大いに勇気付け、そしてインスピレーションの源となったのだった。
このレコーディングで彼が自らの作品「エンゴメ」を演奏し、 そして歌ってくれたことは初にとって特別な名誉である。
ジョン・ウィリアムス
ョン・ウィリアムス本人による楽曲解説
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オ・ビア
フランシス・ベベイ自身、この曲を数度に渡ってレコーディングレている。
ここで聴くことのできるリズムはマコッサ (makossa)といい、カメルーンでは広く親しまれているダンス・リズムの一つ。 -
2. タウンシップ・クウェラ
ティモシー・ウォーカーは南アフリカ出身で、ロンドン在住のギタリスト。
この作品は二つの伝統的なダンス・リズムを下敷きにしていて、一種の輪舞曲からクウェラへとつながっていく。
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マキ
「マキ」とはマダガスカルでキツネザルを意味する言葉であり、 この曲はかつてマダガスカルの姿を描いた「アイランド・オブ・ゴースツ」というドキュメンタリー映画のためにロッシーが書き、そして演奏したいくつかのインストゥルメンタル曲や歌の中の一つである。
ロッシーが演奏していたのはヴァリハと呼ばれる、竹製の円筒状チターであり、同じ様な、明るく、そして同時に暖かいサウンドを生み出すために私は通常より4分の1音高く調弦したレキント・ギターを用いている。
- エンゴメ この曲は親指ピアノ (サンザ)とギターのデュエット曲として生まれ、後にベベイが自身の母国語で歌うこの歌へと発展していった。
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マリンケ・ギターズ
そもそもマリ帝国を生み出した民族であるマリンケ族は、今日ではマリやセネガルなどを含む、西アフリカの大きな部分を構成する様々な国々に居住している。
このデュエットは伝統的なグリオーの歌に根差している。
グリオーというのはかつての中世ヨーロッパにおける吟遊詩人に相当する西アフリカの詩人のことだ。 -
マサンガ
これはボスコの作品の中でも特によく知られている曲の一つである。
彼がこの曲を演奏したのは晩年になってからのことであり、よりゆっくりとしたペースで、もっと低いキーで演奏していた。
私は彼のオリジナル・バージョンを、カポを5フレットにつけて演奏している。 -
ムッシャ・ムシキ
この作品の第二部のリズムは、私の弟のダンが1988年に、ジンバブエのとある村落で収録した映画に映っていたダンスから取った。
作品の第一部はより西アフリカ的であり、スタイル的にもミニマリスティックな雰囲気を感じさせる。
和声の響きは曲を通じて一貫している。 -
ミトパ
「ミトパ」も「マキ」同様、マダガスカルについての映画のためにロッシーが書いた音楽から取っている。
この曲は釣船の動きを描写している。 -
トライアンギュラー・シチュエーションズ
バウと呼ばれるギタリストがこの曲を演奏しているところを聴いた私たちは、この曲が二人のギターで演奏するにぴったりの、素敵な作品になることを確信した。
この曲のタイトルはカボ・ヴェルデの音楽に影響を与えた3つの要素、つまりアフリカ、ポルトガル、そしてブラジルのことを指している。 - ギター・マコッサ この曲は典型的なマコッサであり、なんとフォークと瓶で演奏されているのだ!
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ザ・マジック・ボックス
この曲は元々ベベイの筆による、ギター用のソロ曲であり、歌でもあった。
歌のバージョンでは、歌詞が昔のゼンマイ式蓄音機のことを歌っている。
歌い手は箱の中にいるのだろうか、それとも円盤の中にいるのだろうか? -
オンビィ
ララントはマダガスカル出身の偉大なギタリストの一人である。
本来は歌であったこの作品で聴くことの出来る、少しずつその姿を変えるリズムはマダガスカルの大衆音楽ではよく見られるスタイルだ。 -
ンコシ・シケレッリ・アフリカ
アフリカ民族会議のアンセムでもあるこの曲を編曲するに当たり、 私はキリスト教の聖歌に根差すこの曲のルーツを、より普遍的なものに発展させようと試みた。
和声には多少手を加えてあり、合唱団もユニゾンで、原曲のコサ語の一節を歌い、そしてパンパイプ(ザンポーニャ〉はより汎宇宙的な精神を伝えようとしている。 -
ジャンジョン
この曲は本来西アフリカのハープ=フルートであるコーラで演奏される曲だ。
コーラはアプリカでも最も美しい姿と響きをもった楽器の一つである。 -
サンガラ
これもまたマコッサだ。
もちろん、フォークと瓶で演奏している。
ョン・ウィリアムス本人による楽曲解説
フランシス・ベベイとの出逢いが生んだ 『ザ・マジック・ボックス」
そのキャリアを通じて、常にギター音楽の表現の幅を広げようと挑戦を続けてきた音楽家、ジョン・ウィリアムス。
久しぶりに届けられた新作「ザ・マジック・ボックス」はそれまで彼が得意としてきたスタイルから大胆に逸脱した、新鮮な驚きに満ちた音の万華鏡だった。
デビュー当時は“ギター界のプリンス”と絶賛され、ギターの伝統を受け継ぐ存在として25年間に渡り、常にシーンを牽引してきた最高の音楽家が挑んだのは、なんとアフリカ音楽だった。
ジョン・ウィリアムスはかねてからアフリカ文化の多様性、その色彩感に興味を持っていた。
1998年にカメルーンの国民的英雄の音楽家/作家、フランシス・ベベイと出会い、その作品を通じてアフリカ音楽におけるギターの役割の大きさを知ったジョンは大いに感銘を受けた。
時と共にこの新しいサウンドに対する情熱は募る一方だった。
そしてその2年後、ジョンはベベイ本人を招き、彼と共にアフリカ音楽の魅力を正面から描くプロジェクトに着手。
「ザ・マジック・ボックス」が完成した。
ここではベベイの作品を筆頭に、ワールド・ミュージックの分野で幅広く活躍するバスコ・マルティンスやアフリカン・フィンガー・ スタイル・ギターの巨匠、ジャン“ボスコ”ムウェンダなどといった、マリ、セネガル、マダガスカルなどアフリカ各地の文化を体現する偉大なる才能達の作品を取り上げ、ジョンならではの正確無比なテクニックと、これまでにないほどにレイドバックした雰囲気を融合させて、聴いて気持ちいい、聴き込んで素晴らしいアルバムを完成させている。
また、ジョン自身がアフリカの民謡をモチーフに書いた作品も収録されている。
初めて触れるサウンド、そして音楽の喜び
ここで聴くことの出来るアンサンブルはジョン自身が自ら熟考を重ねて選び出した演奏家ばかり。
ジョンにとって彼らはサポートをするアンサンブルではなく、一緒に音楽を作り上げるコラボレーターに他ならない。
彼らとの演奏は「リズムや音に関する、西洋的な常識をしばしば覆すような経験だった」という。
「アフリカ音楽では様々なリズムが互いに絡まりあい、その一つ一つが生命を持っているんだ」。
「ベベイは、アフリカの音楽の一番の目的は人々を幸せにすることだと言っているけれど、それは決して単純な楽しみのために音楽があるという意味じゃない。
あれほどの哀しみや悲劇が渦巻く世界で、 自分たちが存在しているという根元的な喜びを音楽を通じて表現しているんだ」。
常にその転機を彩ってきた“出逢い”
ジョンのキャリアの節目節目は常に“出逢い”によって彩られてきた。
11歳の時のセゴビアとの出逢い、一躍世界のトップに躍り出るきっかけとなった、ジュリアン・プリームとの出逢い、そして武満徹との出逢い。
様々な才能の持ち主と出逢い、そしてインスピレーションを受けることでジョン自身の世界は深まっていったのだ。
そして今回、新たなる音楽の世界への扉を開くきっかけとなったのが、 フランシス・ベベイとの出逢いだった。
様々な“出逢い”を通じて成長を続け、感動を生み出してきたキング・オブ・ギターの、新しい響きがここにある。
ジョン・ウィリアムス バイオグラフィー
現代のクラシック・ギター界に君臨する唯一無二の帝王、“キング・オブ・ギター” ジョン・ウィリアムスは1941年4月にオーストラリアのメルボルンで生まれた。父はジャズ・ギタリストとして高く評価されていた音楽家であり、1930年代にイギリスからオーストラリアに移住、そこでジョンの母と出会っている。
ジョンが初めてギターを手にしたのは4歳の時だった。
父から楽器を譲り受け、たちまちその魅力に取り憑かれたジョンは、父の方針でもっぱらクラシック作品ばかりを演奏していたという。
1950年代に入るとウィリアムス一家は再びロンドンに戻った。
父はロンドンでギター教室を開き、この頃には既にその才能の片鱗を見せ始めていたジョンに最上の音楽教育を与えるべく奔走し、息子を “ギターの神様”アンドレス・セゴビアに引き合わせる。
少年の類い希なる才能を認めたセゴビアは、自らの元で勉強を続けることを勧めた。
かくして若きジョン・ウィリアムスは夏はセゴビアの元で、それ以外の時期はロンドンの王立音楽院に通いながら勉強を続けた。
当時のクラシック界全体の風潮を反映し、王立音楽院ではギター部門が充実していなかったため、ジョンはここではピアノと音楽理論を学び、卒業後まもなく、ジョンは新しく設立されたギター部門を任されることになった。
ジョンのプロとしてのデビュー・リサイタルは名門ウィグモア・ホールで行われた。
1958年の11月、まだ18歳に手の届かない青年が満場の観衆を前に堂々たるパフォーマンスを披露した。
それはスター誕生の瞬間だった。
このコンサートを見たセゴビアは弟子をして「音楽の世界にギターの貴公子が降り立った」と評した。
それは後に何年間にも渡り、ジョンの評価を固める一言であった。
1963年にジョン・ウィリアムスは初来日を果たしている。
その直後、 CBS(当時・現ソニー・クラシカル) とレコード契約を締結、 1964年にデビュー・アルバム 『CBS presents John Williams」を発表し、同年の12月にニューヨーク・デビューを果たした。
まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで彼の評価は上っていった。
ジョン・ウィリアムスの、ギタリストとしてのキャリアを語る際にジュリアン・ブリームの存在を無視するわけにはいかない。
セゴビアが世界中でクラシック・ギターの世界を拡大しつつあった中、ブリームはクラシック音楽の世界におけるギターという楽器の地位を高めるべく尽力していた。
ジョンとブリームはたちまち互いの才能を見抜き、意気投合して新しいクラシック・ギターのムーヴメントを創りあげる原動力となっていった。
二人はたびたび共演を果たし、それは70年代の後半まで続いた。
そして彼らの素晴らしい才能の輝きによってクラシック・ギターの世界は大いに盛り上がっていったのだった。
1969年にウィリアムスは映画音楽家/編曲家のスタンリー・マイヤーズと出会う。
当時マイヤーズは『The Walking Stick」という映画のスコアを手がけており、そこで使用するつもりのフレーズをジョンにピアノで弾いて聴かせた。
たった3小節のフレーズだったが、 いたくその音を気に入ったジョンはマイヤーズにそれを発展させてギター曲に仕上げるようにけしかけた。
結果生まれた曲がジョンの代表曲「カヴァティナ」であり、この曲は後に映画「ディア・ハンター」で使用され、ジョンの代表曲となっているのである。
その後もマイヤーズとの交流は続き、クラシックのみならず様々な切り口での共演が実現している。
ジョンの音楽を語る上で忘れてはいけない存在である。
1970年代に入ると、クラシック音楽の演奏家としての自分に飽きたらず、ジョンは様々な可能性を追求し始めた。
チリのグループ、インティ・イリマーニとの共演や、ギリシャのマリア・ファランドゥーリとの共演はそういったジョンの思想性と、音楽的な発展性を表現していた。
さらにこの頃からジョンはクラシックをベースとしたフュージョン・ミュージックにも興味を持ち始め、様々なスタイルで実験的なサウンドを追求し始めた。
クラシックのコア・ファンやメディアからは道草を食っていると酷評されながらも彼はエレクトリック・ギターを手にするなど、そのサウンドの幅を広げていった。
マイヤーズとのコラボレーションやブリームとの共演など、この時期のジョンはあらゆる意味でアーティストとして充実した時期を送っていた。
そして1979年、ついにジョンは純然たるフュージョン・グルーブ、スカイを結成する。
スカイはジョンが真剣にジャズ/フュージョンに取り組んだ記念すべきグループであり、その大胆な動きに賛否両論が巻き起こった。
だがその後5年間に渡り、ジョンはスカイでの活動に没頭し、精力的な音楽活動を続けた。
1983年にジョンはスカイを離れ、再びクラシック音楽の世界に戻ってきた。
翌年にはダニエル・バレンボイムが立ち上げたサウス・パンク・サマー・ミュージック・フェスティヴァルの音楽監督の座に就き、成功を収めた。
この年の10月にはサイモン・ラトルとともに武満徹の「虹へ向かって」を初演している。
ジョンは後にこの作品をロンドン・シンフォニエッタと一緒にレコーディングしている。
80年代後半には精力的にヨーロッパ各地をツアー、イギリス音楽界を代表するコンサート、プロムスにも初出演を飾っている。
90年代に入ってからはパコ・ペーニャやインティ・イリマーニなどとツアーを行う一方でオーストラリア室内管弦楽団や新しいアンサンブル、ATTACCAなどでの活動を充実させた。
そして1995年には実に25年ぶりとなる日本ツアーを実現、熱烈な歓迎を受けた。
以後、日本には約2年に一回のペースで来日を果たしている。
アルバムも精力的にリリースを続けており、60になってもその創作意欲は衰えをしらない。
まさに驚嘆すべき音楽家であるといえよう。

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